教えのやさしい解説

大白法 517号
 
宗教の五綱(しゅうきょうのごこう)
 「宗教の五綱」とは、大聖人独自(どくじ)の教相判釈(きょうそうはんじゃく)で、教(きょう)・機(き)・時(じ)・国(こく)・教法(きょうほう)流布(るふ)の先後(せんご)の五つをいいます。これは、あらゆる宗教を、教え・機(き)(こん)・時(とき)・国土(こくど)・教法流布の次第の上から批判(ひはん)選択(せんたく)し、最も勝(すぐ)れた宗旨(しゅうし)の何たるかを決定(けつじょう)する大道理(だいどおり)、大綱(たいこう)であることから、五綱教判・宗教の五箇(ごか)・五義等ともいいます。したがって、日蓮大聖人は『教機時国抄』に、「此(こ)の五義を知りて仏法を弘(ひろ)めば日本国の国師とも成(な)るべきか」 (御書 二七一)
と、宗教の五綱をよくわきまえて仏法を弘めるならば国の師ともなろう、と仰せです。
 第一に教綱判(きょうこうはん)とは、一代(いちだい)聖教(しょうきょう)のみならず、あらゆる宗教・哲学等を含(ふく)め、五重相対(ごじゅうそうたい)・五重三段(ごじゅうさんだん)等の教判によって、一切の勝劣浅深(せんじん)を判釈(はんじゃく)し、寿量文底(もんてい)に秘沈(ひちん)された本因(ほんにん)下種(げしゅ)の南無妙法蓮華経、すなわち本門(ほんもん)三大秘法の教法こそ真実最勝(さいしょう)の教法であると判ずることです。
 第二に機綱判(きこうはん)とは、釈尊の在世(ざいせ)並びに正法(しょうぼう)・像法は本已(ほんい)有善(うぜん)妙法の仏種(ぶっしゅ)を有(ゆう)する機(き)にして、文上(もんじょう)本迹(ほんじゃく)二門以下の熟脱(じゅくだつ)の教えによって利益(りやく)を得(え)る機根(きこん)であったのに対し、末法は本未(ほんみ)有善(うぜん)妙法の仏種を有さない機にして、初めて下種を受ける機根であるから、末法の衆生を教化(きょうけ)すべき教法は、ただ文底(もんてい)本因(ほんにん)下種の三大秘法のみであると判ずることです。
 第三に時綱判(じこうはん)とは、釈尊滅後(めつご)二千年を経(へ)た末法は、闘諍(とうじょう)言訟(ごんしょう)白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の第五時に当たり、釈尊の小大(しょうだい)・権実(ごんじつ)・顕密(けんみつ)等の経益(きょうやく)がすべて滅(めっ)します。ただ『薬王品(やくおうほん)』の、
 「後(ご)五百歳中(さいちゅう)。広宣流布」(新編法華経 五三九)
の金言(きんげん)どおり、本門三大秘法のみを弘宣(ぐせん)すべき時と判ずることです。
 第四に国綱判(こくこうはん)とは、仏法流布の因縁をよく知ることです。日本の名(な)には、自(おの)ずと弘(ひろ)めるべき法、弘めるべき仏、本門流布の根本を表(あらわ)す意(い)があるので、通じていえば法華有縁(うえん)の国であり、別(べっ)していえば三大秘法が広宣流布すべき根本の妙国(みょうこく)であると判ずることです。
 第五に教法(きょうほう)流布の先後(せんご)を判ずるとは、時代的に仏法流布の順序(じゅんじょ)を知ることで、正法(しょうぼう)(ぜん)五百年は小乗(しょうじょう)流布、後(のち)五百年は権大乗(ごんだいじょう)流布、像法(ぞうぼう)一千年は法華経の広略(こうりゃく)二門流布であったから、末法は必ず文底下種の本門三大秘法が流布すべき時節(じせつ)に当たると判ずることです。
 以上のように、宗教の五綱とは、いずれも末法(まっぽう)今時(こんじ)に流布すべき教法が、文底本因(ほんにん)下種の南無妙法蓮華経、すなわち宗旨(しゅうし)の三大秘法に存(そん)することを規定(きてい)された教判なのです。言い換(か)えれば、いかなる方面(ほうめん)から末法に流布すべき教法を探求(たんきゅう)しても、本門の三大秘法に行(ゆ)き着(つ)くということであり、また宗教の五綱が、三大秘法を弘通(ぐずう)するための大きな道筋(みちすじ)であるということです。
 したがって、日寛(にちかん)上人が『依義判文抄(えぎはんもんしょう)』に、
「此(こ)の五義を以(もっ)て宜(よろ)しく三箇(さんか)を弘(ひろ)むべし」(六巻抄 一〇八)
と仰せのように、真(しん)の大聖人門下(もんか)である本宗(ほんしゅう)僧俗は、宗教の五綱を正しく学び、宗旨(しゅうし)の三大秘法弘通(ぐずう)を実践していくことが大切です。